100年経っても変わらない友好関係は、ひとつの事件から始まる。


Introduction

日本とトルコ、直線距離で8,000キロ以上も離れた2つの国の間には、世界でも類まれな友好関係が築き上げられています。日本ではあまり知られてはいないものの、当時の新聞や人々の間では、日本からは遠い異国への、強い絆を感じていたのではないでしょうか。事実、身の回りに「トルコ」とついている、「トルコキキョウ」や「トルコ石」は、いずれもトルコとは関係ないのに古くから名付けられています。トルコをイメージした昔の人達がそのように名づけた、その思いがよく汲み取れますね。そして10年以上前、こんなFlash動画が大ヒットしました。

https://www.youtube.com/watch?v=OT2BlWE_pOA

Flash倉庫:日本とトルコ

私も当時、このFlash動画を見て、日本とトルコの関係をはじめて知りました。それまでトルコといえば、世界地図を開いてもどこにあるか探さないとわからないし、親日国であることさえ、頭の片隅にあるかないかで、動画を見て感動とともに恥ずかしながら猛勉強をしたほどです。

トルコのことを知れば知るほど好きになりました。言葉の文法もそうだし、昨年イスタンブールに訪れた際にはたくさんのトルコ人に暖かく迎え入れて頂き、他の国では絶対に無愛想な入国管理官にも「ニホンジン?コンニチハ、ヨウコソ!」と挨拶され、入国した瞬間から大好きになりました。

前置きが長くなってしまいましたが、そんな日本とトルコの友好関係、エルトゥールル号の事件を紐解いていきます。

Story.1 Ertugrul Frigate

Story.1 エルトゥールル号の遭難
Story.1 エルトゥールル号の遭難
エルトゥールル号
エルトゥールル号 (Wikipediaより

トルコと日本の間には、世界でも稀に見る友好関係があります。その礎を築き上げるきっかけとなった出来事は、1890年に和歌山県串本町沖で遭難した軍艦エルトゥールル号に始まります。

皇帝・アブデュルハミト2世
皇帝・アブデュルハミト2世(Wikipediaより

1887年、小松宮彰仁親王夫妻のイスタンブール訪問に応えるため、またその裏にはアジア圏のムスリム(イスラム教徒)にオスマン帝国の国力を誇示したいがため、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて皇帝・アブデュルハミト2世の命を受けたエルトゥールル号と船員たちが日本へ派遣されることになりました。

1890年当時の横浜港
1890年当時の横浜港(YOKOHAMA xy(横濱界隈)通信様より)

その後エルトゥールル号は2年後の1889年にイスタンブールを出港、11ヶ月をかけて翌1890年6月7日に横浜港に無事入港を果たしました。

船の摩耗、そして船員の大部分がコレラ(急性胃腸炎)に苦しんでおり、物資も不足している中で日本側はせめて台風の時期だけでもやり過ごすよう勧告をします。しかし、先のオスマン帝国海軍の国力を誇示したいがため、また資金不足も深刻化していたためにエルトゥールル号は出港を断行します。

出港を急ぐエルトゥールル号、そして座礁へ。

1890年(明治23年)9月16日の21時頃、折からの台風により強風で煽られたエルトゥールル号は岩礁に激突、座礁してしまいます。その後機関部に浸水し、水蒸気爆発を起こしておよそ1時間半後に沈没してしまいました。これにより、600名以上の船員が海上に投げ出されてしまったのです。

決死の救命活動

和歌山県串本町、樫野崎灯台に流れ着いた生存者のうち数10名が、灯台守による応急手当を受けます。お互い言葉が通じない中、国際信号旗を通じて初めて遭難したのがオスマン帝国海軍の軍艦であることを知った灯台守、その後通報を受けた当時の大島村(現・串本町)の住民たちが総出で救助と生存者の介抱にあたったのです。

樫野埼灯台と旧官舎
樫野埼灯台と旧官舎(きのくに風景讃歌様より)
小さな村には食料や物資が不足していた

かねてからの台風によって出港できず、食料の蓄えもわずかだった住民たちは、自らの浴衣などの衣類、そして非常用のニワトリなどを進んで提供するなど、自分たちの食料などをさらに切り詰め、生存者達の救護に努めました。

生存者69名、死者・行方不明者587名の大惨事に
エルトゥールル号乗組員の写真
エルトゥールル号乗組員の写真(きのくに風景讃歌様より)

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長、県を通じて大日本帝国政府へ通報されます。知らせを聞いた明治天皇は政府に対し、可能な限りの援助を行うことを指示し、新聞各社が一斉に報道、多くの義捐金・弔慰金が集められました。

エルトゥールル号の事件をきっかけに生まれた絆
山田寅次郎
山田寅次郎(Wikipediaより)

その後、個人で義損金を携え、単身でトルコに渡った山田寅次郎。日本中で演説を行い積極的な募金活動を行い、2年をかけて5,000円(現在の価値で1億円相当とされる)もの寄付を集めました。民間人でありながら単身義損金届けにイスタンブールに渡った山田は、その知らせがイスタンブール中に知れ渡ると熱烈な歓迎を受け皇帝・アブデュルハミト2世との拝謁する機会にも恵まれました。この時山田が皇帝に献上した甲冑は、現在でもトプカプ宮殿博物館に保存されているそうです。

トルコ軍艦遭難慰霊碑
トルコ軍艦遭難慰霊碑(きのくに風景讃歌様より)

明治24年3月、和歌山県・串本町の樫野崎に墓碑と追悼碑が建設され、追悼祭が行われました。今でも5年毎に追悼式典が行われ、2010年トルコにおける日本年のイベントでは、エルトゥールル号の悲劇から120年の節目を迎えるにあたり、両国の用心を招いての式典が行われ、1年を通して80以上の催事が行われました。

トルコ記念館
トルコ記念館(きのくに風景讃歌様より)

そして、樫野埼灯台の近くにはトルコ記念館があります。管内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真が展示してあり、遭難事故当時の様子を知ることができます。

おわりに

こうして、脈々と受け継がれる日本とトルコの友好関係は、今もなお続いています。

そして今年(2015年)はG20の議長国となっているトルコ、日本とは様々な技術・工業部門での提携が国家レベルで期待されており、ますます関係性が深くなる日本とトルコ、その由縁となったエルトゥールル号の出来事は、8,000キロ以上も離れた日本とトルコとの心をつなぐ、強い絆となったのです。

このエルトゥールル号事件、今年、12月末には日本とトルコが合作で映画を作り、公開する予定があるそうです。主演は内野聖陽さん、トルコからはケナン・エジェさん、忽那(くつな)汐里さんなど、文字や写真では伝えきれない感動のストーリーが映画館で見られるのはとても楽しみですね。

映画『海難1890』和歌山県串本町 撮影現場取材 レポート!
映画『海難1890』和歌山県串本町 撮影現場取材 レポート!(東映様より)

海難1890」公式サイトはこちら

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